太宰と夏目と芥川の「愛とは何?」
文メラは、太宰も夏目先生も芥川も「愛とは何?」を苦悩とするのは同じだけれど、本質と行き先は全然違うように感じて、とても面白い。
⚠️注意⚠️
文メラで描かれるキャラクターとしての彼らについて語ります。
史実は抜きでお読みください。
現時点では、無印の江戸川乱歩ver.のみ視聴済みです。
太宰の「愛とは何?」は本気の愛とは何か。
太宰は愛の先にある本気の愛を求めていて、そして、太宰にとっての本気とは共に死ねること。
おそらく太宰自身、生きることにそれなりの執着を持っていて、人はみなその執着を持っているのならば、それを捨てて俺に着いてきてくれることが本気の愛ではないか?と考えたのか。
ただ、共に死ぬのは一度しかできないことで、それを確かめるには「一緒に逝かないか」と誘うしかなく、それを叶えられるまではひたすらに愛を求めるしかない。
太宰は、自分は誰かしらに愛されている存在であることは分かっていたんじゃないかな。
愛はあってもそれが本気の愛であるかまではわからず、俺への愛が本気でなかったら俺を置いて行くかもしれない、俺を忘れて他の奴と死ぬかもしれない、という臆病さが強かったのなら。
「僕を見殺しにしないで…」
「忙しい両親にはあまり構ってもらえなかった」的なことを言っていたし、愛されていることはわかっても、それが自分だけに向けられた本気であるかまではわからなかった。
自分だけが本気になってしまうのを恐れていた。
その結果が、a lover suicide.
本気を死とするのは、自分と対等な愛だという証を感じさせてくれるからということかな。
対等に本気であることを願ってのsuicideだけど、いざその時になったら、「あ、こいつは本気なんだ、」とわかるわけだから、太宰の求めた「愛とは何か?」の答えとなる愛は、死をもって始まる本気の愛かもしれない。
夏目先生が言っていた「誰しも最後は救われる」を太宰に当てはめるなら。
太宰の苦悩は救われてはいないけれど、その愛と共に生きてはいけなかったけれど、苦悩から救われて生きていく先の未来はないけれど、確かに太宰の苦悩に救いはあったのかなと思う。
夏目の「愛とは何?」は本物の愛とは何か
それは、「果たしてこれは愛であるのか?」という疑心からきている。
家族に捨てられ親族をたらいまわしにされ、本当の両親を問うてくる人々。
好感を抱き共に過ごし知れるはずだった本当の家族が、狂気とヒステリーにつきまとわれる日々。
(ここで言う「つきまとわれる」とは夏目自身の神経衰弱も込みでの話だ)
最初に知り、考えるときの基盤とすることになるはずの家族の愛は、お母様の愛は、夏目にとっては疑心の始まりでしかなかったのだろうと思う。
人生とは何? 他者とは何? 愛とは何か?
夏目の知る愛のカタチは、疑心の上にある愛
愛とはどんな心のことであろうか?
家族とはどんな愛のことであろうか?
この愛は純粋なものであろうか?
愛を愛であると言えるのは、どんな心があってのことだろうか?
夏目は、教養あるが故に、人を多く見たが故に、先生のような精神を生きすぎたが故に、神経を衰弱し心が迷い続けたように感じる。
愛には本物があるはずである。
愛されるべき人は愛されて然るべきはずである。
人に平等はないものか、愛にも平等はないものか。
平等な愛や然るべき愛を求めるのは誰かのエゴであろうか。
真剣に本物の愛であるのか見つめていたら、よく見えてきたのは本物の愛かもしれないものの近くに散らばる、細かなざらつき。
そのざらつきをどうにも見逃せず、どうしても疑わずにはいられず、何を信じるのが本物と呼べるのか、どれを自分の心は認めるのか。
先生と呼ばれながらも自分自身の考えがつくり出した迷宮に入りこんで空を見ることもままならず、月の光に気がつかなかった。
そんな印象がある。
芥川の「愛とは何?」は愛は光ではないのか
これには、愛が解決してくれないものへの苦悩も含まれているように感じる。
愛の根源であるはずの母は狂っていた。
救いとも言えるはずの神は光を見せてはくれず、敬愛する先生もすべてを共にする光とは言いきれず。
確かに愛であるはずの妻も子も救いという光にはなりきれず。
では愛はどうして光とはなってくれない、救いともなってくれない。
愛が自分の周りに存在することをわかってはいると思うのだ。
芥川はただ自分の心に閉じこもって闇に彷徨う人ではなく、もっと理智的に現実を見えてしまう人のようだから、夏目が見守る仕草も太宰の敬愛の目もちゃんと感じた上で、それでも光はずっとではないとわかってしまう。
夏目の言葉も太宰の眼差しも、そしておそらくは妻と子の存在も。
それが芥川への愛であることは確かでも、ただ、それを救いとして光として、無邪気に掴んで這い上がることはできなかった。
芥川は、蜘蛛の糸は切れてしまうことを、傘に一滴ずつ垂れた雨水はいつしか穴をつくることを、ありありと想像できてしまう純粋な真面目な聡明さを持っているから。
光はずっとではない。だが闇はいつまでも。
闇の中にある愛は、闇の中で寄り添ってくれる愛ではあっても、闇の外へと連れ出してくれるものにはなれない。
ああそれでは、愛とは何?
芥川には、愛が足らなかったのか、光に愛が足らなかったのか、愛に光が足らなかったのか。
考えてはみたけれど、私には未だ分からない。